片平会 沿革


 本会の名称「片平会」は発足者たちの出身校である東北大学のメイン・キャンパス(現本部)の地名「片平」にちなんで名付けられたものである。
 発会当初は「中部片平会」の学会名称を用い、名古屋地区の会員を中心に活動していたが、年を重ね、会の規模も大きくなり、会員も全国に広がった為、三十周年を機に学会名を現在の名称に変更し、現在に至っている。


「片平会」発足時より今日まで

福尾 芳昭

 1962年(昭和37年)のある日、名古屋市で開催された学会からの帰路、四人の英文学徒が夕食を取りながら歓談した。四人とも敗戦間もないほぼ同じ頃、焼野が原と化した仙台で学んだ同窓だった。
 当時東北大学英文学科出身者の研究会には、仙台中心に「試論」の会と東京中心に「シルヴァン」の会があり、両会とも会誌を発行していた。両会の存在に影響されたのではないが、四人の談話が、名古屋中心に研究会を組織し、研究誌を持とうという方向に進んだ。全員即座に意気投合し、四人が臨時の幹事となって、東海四県の東北大学英文科出身者に研究会設立の趣意書を配布して賛同を求め、「中部片平会会則」案を起草し、会長と副会長の人選をして就任を依頼し、研究会設立総会の準備を鋭意進めた。一方、小林淳男先生に会設立を報告し、先生から満腔の賛意と激励を戴いた。先生は1948年に土井光知先生の後任として英文学科の主任教授となり、1960年に退官されるまで四十年近く東北大学に在職されたので、中部片平会設立時のほとんど全員の恩師だった。
 こうして、準備万端整い、1963年4月に名古屋市で、小林淳男先生ご夫妻臨席のもとで、中部片平会の設立総会が盛大に開催された。発足時の会員は三十四名だった。第二回総会は1964年4月に津市で開催された。小林先生ご夫妻は、先生がお達者だった間は、ほとんど毎年の総会に出席して下さった。先生は、中部片平会の顧問のような恰好で、会の設立時から会の為に尽力を惜しまれなかった。総会の外に研究発表会が随時開催され、会員の研究熱を刺激した。そして、1965年に待望の研究誌『片平』第一号が発刊され、ここに中部片平会の基礎固めが完了した。続いて1966年には第二号と第三号が発刊され、2001年の第三十六号まで休刊知らずできた。この種の研究会とその機関誌が、これほどの長期間連綿と継続しているのは稀有のことで、会の誇りである。
 これは中部片平会が自由の気風を尊重し、固苦しい規則に縛られず、閉鎖的にならないように運営されてきた賜物である。会の設立時には会則で会員を「東北大学英文科出身者」と限定したが(事実は設立時から出身者でない会員もいた)、早くも『片平』第三号発行時(1966)には会則を改正して、会員を「東北大学英語英文科出身者並びに会員の推薦する者」とし、東北大学出身者でない会員を歓迎した。このために会員が増加し、会の運営が経済的に楽になり、会が活性化した。これは会の先見の明の証である。その後会員資格の会則から「東北大学出身者」の文字は消え、熱意のある研究者であれば誰にでも門戸が開放されている。
 会の名称は長期間「中部片平会」だったが、会員資格の自由化と共に会員の居住地が拡大の一途を辿り、会の名称が会員の実状と合致しなくなったので、数年前に「片平会」と改称された。